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市川 修一さんの思い出
  昭和29(1954)年10月20日生 鹿児島県
昭和53(1978)年8月12日
鹿児島県吹上浜で増元るみ子さんとともに拉致(23歳)
市川健一さん(修一さんの兄) 平成17年3月10日、東京連続集会発言から要約
「夕日を見に行ってくる。10時までには帰ってくるから」ということで、二人はね、楽しく出かけて行きました。当時修一は、私の妹夫婦のところに間借りをしておりました。その近くに住んでいたのが増元るみ子さんです。二人は交際して3か月ほどだったと思うんです。
その時初めて遠乗り・ドライブで二人は出かけたんです。約束時間の前にそわそわそわそわし、本当にね、嬉しそうに「時間はまだか?まだか?」というような様子だったそうなんです。妹はあの時の修一の嬉しそうな顔を思い出してはいまだに涙を一杯ためて泣くんですよ。本当にるみ子さんという人が好きだったんじゃないですかね。
  私と修一は9つの年の差があります。ですから修一が生まれた時、私は小学生。学校から帰ってくると修一を遊ばせるのが日課でした。修一をね、背負って遊び呆けていました。風呂にもね、私はよく入れておりましたから、服を脱がせる時も面倒くさくて、足で思い切って後ろから踏んだんですよ。
そしたら手が抜けちゃって。それでもね、少し泣いただけで我慢強い子だったですよね。
  修一は心根の優しい子で両親を大事にしておりました。親の言うことは弟は何でもハイハイと聞いて、色々と手伝いをしておりました。そのような弟がるみ子さんと忽然と消え、姿を消して。私が修一のことを思うとね、背負って遊ばせたそのことを思うともう涙が出てどうしようもないです。兄である私がこういう気持ちですからね、親としては本当に身を切られる思いだったと思います。弟の失踪の8月12日が来ても10月20日の誕生日が来ても、私の家では一切口には出しませんでした。口に出して言うとお袋が涙をいっぱい流し、悲しそうな顔をするもので、本当にね、長年、私の家は修一のことに関してはタブーになっておりました。
  事件から17年後、1995年、確か11月の終わりだったと思います。韓国から国際電話が入ったんです。以前私の家に取材に来られたテレビ局の記者の方でした。「亡命した北朝鮮の元工作員・安明進さんに何枚かの行方不明者の写真を見せたところ、その中から、この男性は何回も目撃していると言った。おそらく修一さんは北朝鮮で生きている可能性が強いです」という電話をいただいたんです。私が電話を切ってから「お母さん、修一が北朝鮮で生きているよ」と言った途端、みるみる大きな粒の涙を流し「どこへおってもいい、元気でいてくれればそれでいい」。本当にね、私もびっくりするぐらいの大きな大声で泣いておりました。安明進さんの証言は、家族にとっては大きな光が、希望の光が差し込んだような思いがしました。
市川龍子さん(修一さんの義姉)
 私の長男と、修一の姉で主人の妹の孝子の長男は、初節句が同時期だったんです。そのとき修一は、郵便局に臨時職員として働いていました。なけなしのお給料の中からですね、二人の甥っ子にガラス張りの大きな兜の置物をプレゼントしてくれたんです。修一にとっては本当に大変な出費だったと思います。それでも可愛い甥っ子のためにということで、修一がプレゼントしてくれました。また母にはですね、初ボーナスで大島紬をプレゼントしてくれたんです。母はこれには一度も袖を通しておりません。見ると涙が出るからって言って、ずっとタンスの中にしまってありました。今日、27年目にして初めて胸に抱いた時、もう母は嗚咽でした。修一を早く連れ戻してやらなきゃいけないという気持ちが、またずんずんと湧いてきました。
  修一が北朝鮮にいると分かってから、母はですね、(昭和)60年だったですかね。 韓国の38度線の鉄柵の前でですね、あらん限りの声で叫びましたよ。
「修一、どこにいるのー!顔を見せてー!声を聞かせてー」ってですね。

 

米国ホワイトハウス前で開催された拉致救出コンサート集会で訴える市川健一さん。平成18年4月22日
日米韓など6か国の国会議員らによる「北朝鮮難民と人権に関する国際議員連盟」の第3回総会で報告する市川龍子さん。平成18年8月7
日、モンゴル・ウランバートルにて

 

市川 修一さん@
母・トミさん37歳の高齢出産だったが、健康優良児の修一さん1歳。母に抱かれて。昭和30年(1995年)
母親は「修ちゃん、早く帰ってきてよ!」と、今でも嗚咽しています(兄・健一)

市川 修一さんA
4歳の修一さん、父・平さんと一緒に。 ─父の好きな「修」の字を付けてもらい、いつも可愛がられていた修一。その父も今では91歳の高齢の身。 再会の日を待ちわびています(兄・健一)

市川 修一さんB
楽しみにしていた幼稚園入園式の日。母・トミさん(後)、仲の良かった姉・孝子さん(右)とともに。5歳の修一さん(手前)

市川 修一さんC
いつも兄貴には絶対服従の修一さん(左)高校1年生。兄・健一さん(右)とは9歳の年の差。

市川 修一さんD
義姉・龍子さん(左端)、父・平さん(中央)と修一さん。高校生のときの家族旅行。霧島公園の賽の河原にて。

市川 修一さんE
地域の友人たちとキャンプ。中央にしゃがんでいる人が修一さん。青春を楽しみ、未来に向かって羽ばたいていた頃。

市川 修一さんF
拉致される1週間前。赤いネクタイを付けて旅行に出かけた修一さん(後列右から2人目)。
北朝鮮元工作員・安明進氏が「修一さんはよく赤いネクタイをしていた」と証言。

市川 修一さんG
拉致当日、薩摩湖で増元るみ子さんと2人で何枚か撮り合った写真。置き去りの車の中にあったカメラのフィルムを後で現像して判明。サンダルの片方だけ残して消えた修一さん。 写真右は薩摩湖のつり橋にて。


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